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Little Spring

除夜を歩く恭介と理樹のおはなし。

冬の日が舞台ですがテーマは「春」です。
「青春」の一部でもあるし、別れと始まりの季節でもある、色んな側面を持つ「春」。
温かくて優しいけど切ない、そんな顔をしているんだと思います。


 

 彼の上着のポケットには秘密がある。それは僕だけが知っている、ひとつだけの春の魔法なんだ。



 青白い夏が過ぎて秋が実り、訪れた冬の日の軒下で僕らはじっと赤信号の点滅を待っていた。
 吐く息は白く、煙のような一瞬の実在を得たかと思えば空気に溶けて消えていく。木枯らしに衣を浚われた裸の惨めな街路樹を挟んだ交差点の向かい側では、夜道を照らす街灯が濡れた地面に反射して、暗闇の底で不気味な輝きを放っていた。濁った紺色で埋められた曇天の空に月の姿は見つからない。短い、だけど特別な夜だ。
 12月31日。除夜。年の瀬、行く年来る年。
 色々なフレーズが頭に浮かぶ。端的に言えば、今日は今年最後の一日だった。
 寮のラウンジで流れていた安っぽいホームドラマの一幕で、腰を曲げたお婆さんの俳優が「今年も無事に大晦日を向かえられてよかったねえ」なんて台詞を読み上げているのを傍目に見ながら、僕はまったく同質の感慨を噛み締めていた。ひょっとするとこういう風だから、「今のは少しじーちゃんっぽいぞ、お前」なんて時折、鈴に釘を刺されてしまうのかもしれない。でも、今年ばかりは仕方がないじゃないか。
 そんなことは誰も言わないけれど。皆、心の何処か隅の方では、きっと。
 誰ひとり欠けることなくこの日を向かえられて本当に良かったと、僕と同じ気持ちで居てくれるんじゃないだろうか。
 今年一年、五月の中頃に始まった新たなリトルバスターズが結成されてから、あまりにもたくさんの出来事が、転機が訪れて……色々なことがあり過ぎた。連綿と続いてきた騒がしい日常、そして、漏れたガソリンの鈍い匂いから続く非日常。その大半を占める一つの時間が、夢のような、夢の中での記憶としか言い表せないのはなんだか不思議だった。僕らは皆で長い夢を見ていた。目覚めた先で再び出会ったあと、それから、もう一度輪になるように手を繋いだ。いつかの不自然な歪さを抱えた円ではくて、違ったかたちを目指して。
 例えるなら、軟らかなソフトボールの球から硬く縫い目の刻まれた野球のボールのかたちへと。それは目を見張るような変化ではなかったかもしれない。それでも確かに、皆で繋いでできた大きな輪からその内側へと一歩あるいは二歩、歩み寄って互いの呼吸が聞こえる距離へと結束していったのだと思う。相変わらず、誰かが空へ向けて跳ねれば夫々別々の方法で追いかけようとするような、不揃いで心地よい危うさが残っていて、それはそれで僕たちらしいのだけれども。
 男子寮の部屋に残っているバスターズの顔ぶれを思い出しながら、こっそりとほくそ笑む。冬休みで授業もないというのに、ほとんどオールキャストだ。実際、帰省組が抜けてガラ空きの男子寮で騒がしくしているのは僕たちくらいだった。
 実家に帰らなくていいのかと疑問に思っても誰も理由は問わない。
 それは多分、今夜のように全員で集まって部屋で狭苦しく肩を寄せ合いながら鍋を囲むためでもあり、一日でも長くこの日常を過ごすためでもあるのだろう。
 騒がしい僕らを象徴するように、本日バスターズの面々が集う部屋の入り口には「第一回リトルバスターズ土鍋INコタツ大忘年大会」という気の抜けた横断幕が提げられている。今回の主導、もとい言い出しっぺは僕だった。といっても、クリスマスパーティの後に軽い気持ちから「寒くなってきたから皆で鍋でも食べたら楽しそうだね」と言っただけだったのに、「どうせやるなら大晦日はどうだ」「リトルバスターズ大忘年会ってことか」「横断幕作りなら俺にまかせろ!」……と、‏あれよあれよと準備が進み、当日を迎えてしまったのだった。
 開催地はなぜか男子寮の僕と真人の部屋。明らかに十人以上収容するには狭いスペースなのに、全会一致で異議なしというのはどうなのだろう……。反対したところで、葉留佳さんは「イヤだイヤだ理樹くんの部屋がいいー!」なんて駄々っ子みたいな発言で後押ししてくるし、クドや来々谷さんまで援護射撃で丸め込んできて、拒否権は完全に無いようなものだった。

 氷点下零度は伊達じゃない。外へ出てくる前は然程広くもない個室にぎゅうぎゅうに詰められて窮屈で仕方なかったというのに、帰り道では暖房の効いた室内環境を目掛けて早足になっていた。
 皆で持ち寄った食材が底を尽きた頃、じゃんけんで負けた僕と恭介の二人は買い出しに狩り出された。
 勝負運の良さを自ら称するほどの実績を持つ恭介がこういう局面で負けるのは珍しい。もしかすると態と負けるなんて器用な真似ごとをしていたりして。恭介なら、誰にも悟られずにたった一人で舞台を立ち回って、そのくらいやってのける。真相は闇の中にも、空になった鍋の底にだって見つけられない。それでも悪い気はしなかった。

 閑散とした商店街に満ちた年末年始特有の静けさに、二人分の足音が氷の薄い膜を割るようにヒビを入れる。
 閉店間際のスーパーに駆け込むことができて助かった。まだ夕食時とはいえ大晦日のこの時間帯だ、店内の人影は疎らで、現にこうして外を歩いているとすれ違う人もない。日曜日に訪れる賑やかな街はシャッターの並ぶ寂れた景色へと顔を変え、知らない路地裏に迷い込んでしまったかのような錯覚を誘う。ここは人も光も消え失せた世界の終わりの夜。耳鳴りが聞こえてきそうだ。叫び声をあげたら木霊が返るだろう。眠りに染まった街角を起こさないようにと、僕らは慎重に静謐の檻から逃げ出した。

 路地を覆うアーケードを抜けると、道路沿いに積もった雪が白銀の城を築いていた。比較的車通りの盛んな商店街前のこの道では車道にわずかに茶色い泥を残して砕ける氷が路地を濡らすだけで、雨が落ちた後とほとんど変わらない。恭介は歩道に降りた溶ける前の雪を目掛けて駆けていった。僕のよりワンサイズ大きな靴跡が白の一面に次々とスタンプされていく。一番乗りだとでも誇らしげにして。きりり、と掻き消されそうな産声をあげて雪の断片が押し潰される様は愉快で、追いかけて彼に倣ってみた。足下で体重に圧された新雪が弾ける。一歩進むたび、路上に芽吹いた雪原に靴の花が咲くのが楽しくなって、夢中で先へ続く軌跡を追いかけた。並ぶ二人分の足跡。時にぴったりと重なって、時に距離を隔てながら。
 足下ばかり見ていたからだろう、縮んでいく間隔に気がつけず、追いついた背中にぶつかった。恭介が立ち止まったからだ。
「おっと、赤だな」
 前を向くと、柔らかな雪の絨毯はすぐ先で途絶えていて、いつの間にやら見知った交差点に行き着いていた。黒光りするコンクリートの地面にぼやけて拡散した赤が射している。信号機はまだ静止の要求を無言で突きつけていた。
 耳を劈くような冷気に震えを覚えて、ぶるりと肩が揺れた。思わず目をそばめてしまう。隣の恭介を見るとパンパンに膨れたビニール袋を抱え直して、空いた手に生ぬるい温度の息を吹きかけていた。その悴んだ指先は真っ赤に腫れている。
「やっぱり買い過ぎちゃってない?持とうか」
「おいおい、真人の筋肉には劣るが俺もまだまだ現役だぞ。負けていられるかよ」
「えー。僕だって少しは鍛えてるんだけどなあ」
 冬休みに入ってからこちら、一向に優れない天候と更新され続ける最低気温に気圧されて野球の練習はご無沙汰気味だった。
 恭介と半分に分けた食材の詰まった袋を僕も片手に持っていたのだけど、冷気に刺されて凍えることはない。素手では寒かろうと用心して手袋をしてきたからだ。出先の営業時間に間に合うようにと焦って部屋を出たわりに、適格な状況判断だったかもしれない。ひとつ、妙案が浮かんだ。
「はい。こっちも半分こ」
 ビニール袋を持っていない方の手袋を外して恭介の目の先へ渡す。短い逡巡の間を経て、紅に染まった指がそれを受け取った。
「理樹には敵わねえなあ」
 頬を緩ませてそんな台詞が吐き出される。フリーサイズでシンプルなデザインの手袋は幸いにも恭介の手によくフィットしたようで、はめた方の掌をグローブの硬さでも確かめるように握ったり開いたりしていた。それだけの仕草だというのに、彼の瞳は屈託のないかがやきを宿して嬉々とした色を映し出す。僕にはまだ見えない、何か楽しいことを見ているのだろう。
 ふいに、夜空の翳りを帯びたまるい緋色がこちらへ向けられ、どきりとする。無垢な懐疑の眼差しがそこにあった。
「荷物を持ってる方の手はこれでいいとして、もう片方はどうするんだ?」
 ……考えていなかった。虚を突かれてついしどろもどろになりながら、苦しい言い訳を捻り出す。
「それは……ポケットにでも入れておけばいいんじゃないかな」
「ポケットに、な。……なら、こうするしかないか!」
 ぐい、と無防備になった裸の左手を強引に引かれる。抵抗する隙なんか与えられない。恭介の右手に強い力で握られて、横暴な所作で奪われる。自由を、そして一瞬の呼吸を。
 腕ごと引かれて僕の手が連れ込まれたのは、彼のコートのポケットの中だった。
「恭介っ」
 口許は、にやり、不敵な結び方。いたずらを仕掛ける時に特有の、意気揚々とした悪童じみた面持ち。
「これならあったかいだろ、な?」
「どっちかというと、恭介の手が冷えててつめたいけどね」
「なら理樹が温めてくれ」
 そう言われてしまうと断れない。恭介の提案する打開策はいつだって無茶苦茶だ。けれども、往年その無茶を止められず付き合ってきたのは他でもない僕自身で。
 この瞬間だって、手の平の感覚に我知らず綻ぶ口許を、体温上昇に伴って熱くなる頬をマフラーに埋めて隠すのに必死だ。痛いくらいに冷えていた耳だってのぼせた朱色が振り払えない。
 恭介が着ているのは丈の長い厚手のハーフコート、しかしポケットに二人分の手が入っているとさすがに窮屈だ。内側で衣擦れを繰り返しながら、僕らは手探りに指を絡めた。応えるように冷たい手が弱い力で握り返してくる。指の腹が骨張った節をなぞると、触れているのがあのすっと長くて綺麗な恭介のものの感触だと分かった。
 誰が最初に覚えたのだろう、生まれた熱が指先を伝ってじわりと溶ける。悴んだ赤い手をぬるく氷解して僕らは温度を共有する。きっと、彼の上着のポケットには秘密があるのだ。厚いコートの裏地に隠された魔法は、僕だけが知る小さな春のかたちをしている。

 こんな寒い日、僕らが手を繋ぐのはいつ以来だろう。
 除夜を歩くと思い出す道がある。期待と不安とが綯い交ぜになって胸の中で騒いだ深夜に、僕はこっそりと一人で家を抜け出ていた。門限を過ぎた時間に家を出るのは、当時の僕にはかなりの勇気が必要だったけど、この日ばかりは惜しんだことはない。心細い夜道に付きまとう闇を振り払いながら全力で走って、向かった先では恭介と、鈴と、謙吾が待っていて。真人は毎年寝坊して遅れていたっけ。あの時も確か、僕の手は恭介に引かれていた。
「そうだ。高校来る前は皆で二年参りしてたよね。行き先は近所の神社だったけど。初詣、来年はバスターズの皆で行ったら楽しそう」
 五人だった頃は、零時前に集合してそのまま神社で年越しのカウントダウンもしていた。だから、僕の一年の始まりも終わりも、一番の「あけましておめでとう」も皆と同時に経験してきた。
「お、いいな、それ。となると、彼奴らともリトルバスターズ恒例、情け不要のおみくじ番付をやる日がきちまったな」
「うわっ、またやるのあれ」
 おみくじ番付、といってもやることは結果を順位付けをするだけだ。たったそれだけなのに、クジを引くときの緊張感は何倍にも膨れ上がった。きっとそれが狙いなのだろう。真人も謙吾も新年最初の真剣勝負と意気込んでいたように思う。結果はその年によりけりだったけど、恭介だけは常に大吉か大凶の両極端だった。つまり、最上位か、最下位。お陰で僕らは大凶が実在するという驚くべき事実を知ったのだった。
 一方、僕はといえば無難な小吉や末吉ばかり引いていた。ただ、一度だけ凶を引いてしまったことがある。小さな紙切れに書かれたただの運試し、今にしてみればたったそれだけのことだった。当時の僕にはそれが世界の終わりの兆しみたいに恐ろしかった。紙切れ一枚の亀裂から、ようやく訪れた幸福が砕けてガラス片のようにバラバラになってしまわないか不安で、怯えて泣き出しそうだった。
 あの時、恭介がくれた大吉がどれだけ心強かっただろう。二人だけの秘密な、なんて言って、隠れてこっそり自分のものと交換してくれた。帰り道もずっと、ポケットの中で握り締めて離せなかった。
 あの時の大吉の内訳はどんな内容だっただろう。咄嗟に思いつく項目をいくつか頭の上に並べてみる。
 健康、学業、恋愛、金運、待人、転居……。
 転居、か。
「恭介。向こうで住む場所、もう決まったの?」
「ん?そこはまだだな」
 前触れもほどほどだったのにあっさり飲み込んでくれた。なんだか、拍子抜けしてしまう。僕の方から訊くのはそれなりに勇気が必要だったのだけど……。

 恭介は冬休みに入る直前のギリギリ年内の範囲で、卒業後の就職先を決めてきた。入院生活で遅れを取り、秋深くなっても一向に決まりそうな様子もなかったというのに、或る朝、突然、「そういや言ってなかったか。就職先、決まったから」と朝食のメニューを発表するような感覚で言われるこっちの身にもなって欲しい。それも、僕らの誰もが気を遣い始めた頃合いに、だ。
 さらに信じ難いことに都心の会社で労働条件も悪くなさそうだったから、この時恭介が獲得したわけわからんポイントはリトルバスターズ史上最高得点を叩き出してしまった。逆転サヨナラホームランなんて生易しいものじゃない。アクロバットが過ぎる飛行でアーチ状のラインを描いた球は悠々と場外へ飛び越えてとうとう一番星の瞬く夕空へ行ってしまった。あり得ない。あり得ないほど馬鹿馬鹿しかった。あまりの馬鹿馬鹿しさに当てられて、僕らはそこから周辺の生徒も巻き込んで彼を胴上げし、クリスマスパーティは恭介の就活成功を祝う会と兼ねた盛大なものへとビルドアップし、果ては大晦日に鍋パーティときてしまった。
 誰も彼もが浮かれて騒いだ。まるで何かを塗りつぶすみたいに、これが最後の祭りみたいに。
 ――慌ただしい日々の中で、ふと振り返ると釈然としないままの自分が居た。

「ま、その辺はおいおいな」
 僕はずっとその理由を考えていた。
 実際、恭介が希望の職種に着けることが自分のことのように嬉しかった。誰もが心から祝福した。門出の称賛をいくつもの輪に編んで彼の首へかけた。おめでとう、おめでとう。そこに嘘も偽りも、強がりだってない。
 それでいて、どうしたって後ろ髪引かれる想いが消せない。
 はやくなくなれと祈るほど肥沃に堆積をかさねて、ずしりと重たく去来する息苦しさに押しつぶしされそうになる。いっそこのままその胸の前で膝を折って、全部、言ってしまいたかった。
 ――ねえ、僕らは、ずっと一緒だったよ。
 反対車線で信号機の青が点滅する。僕らをあんなにも足留めしていた赤は呆気なく闇から姿を消した。やがて信号が、変わる。
「もし、もしもだよ。鈴が『いかないで欲しい』って言ったら、恭介はやめるの?」
 早口に急かす舌が掠れた言葉を吐き出した。
 僕らの手は奇跡みたいに未だに繋がれていて、ポケットの内にだけ体温の存在を感じた。手の甲に爪が食い込むほど一層きつく握り締める。離れるな。まだ、離れないで。少しでも力を緩めたらするりと抜け出てしまいそうで不安だった。
 青信号が通行者を急かすのに二人とも氷ってしまったように動き出さない。誰もが街からいなくなった後の、静過ぎる最後の夜に眩暈がした。寒さのせいでもないのに背筋が固まって前を向けない。恭介の顔が見れない。
「やめないな」
 冷たく言い放つ低い声に、身体が強張った。
 俯いたままぎゅっと瞑目する。そのまま待っても眠りの幕が降りることはもうない。代わりに、握り締めた左手に僅かな握力が返った。それはまるで張り詰めた錠をそっと解くみたいに絡めた指をなぞって掻い撫でた。くすぐったい感覚。切迫した不安を数えるだけの思考回路が溶かされていく。
「理樹、『鈴が』なんて言い訳だろ。言いたいこと、あるんじゃないのか」
 完全に閉じた黒の中で、降ってきた声音は思いの外優しげに前を向くことを求めた。はっとして見上げると、恭介の顔がすぐそこにあった。
「ここのところずっと忙しくしてたから、あんまり構ってやれなかったしな。……うん、悪かった。だから、今聞く」
 まっすぐに向けられた視線が僕を射抜く。
 恭介は、全部一人で決めていた。
 独断専行の僕らのリーダー、兄貴風を吹かせて率先して往くいつもの癖、先頭席がベストプレイス。ずっと続いてきた立ち位置で、あの事故の後からはほんの少しずつそれが揺らいできたと知っていても、核心的な部分では譲らなかった。そして僕らもそれを守り続けた。
 今更そんなのずるいじゃないか、そう叫び出したかった。いつかみたいに一片の凶事につまづいて、泣き出して駄々を捏ねられるものならまだよかった。泣くなと諭した秋の海の指先が今も僕の涙を留めて制す。手にした吉を交換なんかしてくれないと、とっくに分かっていた。
 もう瞼は閉じない。口角筋を無理やり緊張させて、ぐっと釣り上げる。
 真正面から視線を受け止めて、僕は笑う。
 自覚はあった、もし鏡があったらそこには酷い顔が映っているんだろう。
 開きかけた口から言葉が溢れ出ささないように歪な唇を結んだ。瞳を一ミリも逸らさずに見つめる恭介の表情は、穏やかな微笑が途絶えない。
「言わなくていいのか」
「うん、言わない」
 雪の日に凍えた指先も西から春が吹く頃にはぬるく氷解するだろう。
 やがて冬が去り、白い大地に暖かな陽が射せば、僕らは繋いだ手をほどいてしまう。次の季節に氷の国はない。寒さに震えて互いを頼りに温度を求める、その必要もなく、繋いだ手は駆ける両足の速度を緩めるばかり。そうと知っていて、例えば火傷をしようともこの手を離し辛く思うのはやはりわがままだろうか。
 この、ポケットの中の小さな春。離れる手が結ぶ間だげ生まれて、そして消えて行く魔法のような短い春。

「もうすぐ、だね」
「そうだな」
 青信号を渡る僕らが歩き出すと、曲がり角の果てから学校の影が近づいてくる。明かりの点いた部屋を探して、たちまち帰るべきその場所を見つける。
 春の日につなぐ輪のかたちは、きっとまた違うかたち。そして僕らは二人、並んで往くのだろう。それぞれのスタートラインから見える別々の明日、その向こうへ。


 ――別れの季節に小さな春の終わりを抱いて。



fin.

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