リフレインED後の理樹と恭介が色恋沙汰の話をしているだけ。
一応二人の関係は友情のつもりですが、理樹とのカップリングは誰とでも取れる感じになってます。
公式SSの「僕らの朝」を意識した内容です。
そちらを読まれてるとシチュエーションが分かりやすいはず。
リトルバスターズの皆で決行した僕らの、僕らだけの修学旅行。
皆で海を見て訳もなく浜辺を走って、民宿へ着いてからも馬鹿騒ぎは続いた。浮かれ気味の皆の姿は、まるで勝てそうもなかった野球の試合に快勝したあの時みたいだった。胸の中に確かに残っている、その思い出はいつのことだっただろう。
きっと羽目を外していたのは一人や、二人ではなかったと思う。謙吾も真人も興に乗じて怪我でもしないか不安な程に騒ぎ立ててくれたものだから、二人の布団から寝息が聞こえてきた時には妙に安堵してしまった。あれだけ元気に遊べば今夜は熟睡に違いない。耳慣れた真人の寝言を、男子寮にはない畳の和室で聞きながら苦笑していた。
楽しいことだらけの一日がもうすぐ終わる。
夜も充分に深いというのに僕は寝付けずにいた。洗濯の行き届いた清潔感のあるシーツに転がって、輪郭のぼやけた天井の梁を眺めるのにもそろそろ飽きてしまった。寝返りを打ちながら手足を動かしてみる。忙しい一日だったけれど、動く余力はまだ残っていそうだ。徐に立ち上がると、足音を立てないように注意して四つの敷布団が窮屈な男部屋から抜け出す。途中、入口の近くにあった謙吾の脚に引っかかりあやうく蹴っ飛ばすところだったけれど、幸い爆睡していてくれた。幼馴染の寝つきの良さに感謝する。
特に行く宛てはない。
確か、廊下の突き当たりにあるロビーに自販機があったはずだ。秋口の夜だ、隙間風があるのか少し冷える、温かい飲み物でも買おうと思い至る。非常灯と窓から差し込む月明かりを頼りに、のろのろと歩を進めた。
途中、僕らの部屋から少し距離を隔てた女子部屋の前を通り過ぎる。やはりと言うべきなのか、期待外れと言うべきか、あの賑やかなメンバーが中に居るとは想像もつかないくらい静かだった。物音ひとつ聞こえないのが却って不気味だ。心細くならない訳ではないけど、特に用事がある訳でもない。皆、すっかり寝静まっているのだろう。
自販機のサンプルステージに乗った蛍光灯からぼうっと漏れる薄明かりがロビーの闇を四角く切り取っている。やはり人気はない。耳を澄ますと潮騒が聞こえてきそうだ。季節外れで寒気を誘う景色だけれども、夜の海というのも風情があるのだろう。
据え付けられたソファに座り込んでいると何かを待っているみたいに錯覚してしまいそうになる。ボトル缶の番茶を、両手を温めるように持つ。ここにいることを、現実の温度で確かめるみたいに。
どれくらいそうしていただろう。
徐々に失われていく熱は時間の感覚を教えてはくれない。
眠れない理由は分かっている。――まだ、昼間の熱が冷めてくれない。
見るからにハイテンションな葉留佳さんや真人達に負けず劣らず、僕自身も気持ちが昂ぶっていたのだと気がつく。
学校を抜け出てきた背徳感や、皆と遠出をして遊べる高揚感、そういった情動に背中を押されながら、一番の動機は明らかだった。
「どうした、理樹。眠れないのか?」
ふいに声がした。
聞き慣れた、いつだって聞いていたい、優しい音。いつ起きたのだろう、それとも起きていたのだろうか。
仰ぎ見ると、声の主がにっと笑う気配がした。
――そうだ、恭介が帰ってきたんだ。
「恭介……」
弱々しい電灯の明かりに照らし出されて、精悍な顔つきが浮かび上がった。目にかかるほどに伸びた前髪は入院生活で無精にしていたのかもしれない、僕は夢心地で見上げていた。
恭介は中々部屋へ戻らない僕を心配して探しに来てくれたらしい。そのどちらも珍しいことではなかった。持病のナルコレプシーで突然眠りに落ちてしまい、気がつけば幼馴染の恭介達に介抱されていた事例は過去に何度もあった。その度に僕は、弱さを眼前に突き付けられるようで、けれどもいつも目覚めると傍で手を握ってくれる誰かがいる現実に人心地を覚えた。何度だって日の当たる場所に連れて戻してくれる、大きくて力強い掌。
はたと気がつく。
そうか、僕はもうその手を待つこともないのだ。助けを待たずして一人でに、目を覚ましてしまう。
「あー、なんだ、やっぱり余計な世話だったか」
曖昧な返答しかしない相手に痺れを切らしたのか、ばつが悪そうに彼は首の裏あたりを掻いている。僕は首を横に振る。そうか、と呟く声に安堵が滲んだ。
「せっかくだ。眠たくなるまで、何か話でもしてから戻るか」
「そうだね」
勧めるまでもなく恭介は僕の隣に腰を降ろした。肩が当たりそうな位置まで距離が埋まる。そういえば、ずっと居ない誰かに遠慮するみたいに隣の席が空いていたのを思い出す。
恭介を見ると、視線を微妙にこちらへ向けて長い睫毛が傾いでいた。口許はかすかに堪えるような結び方。これは、そう、何か企んでる時の顔だ。次に来る質問の内容に予感があった。
「理樹は好きな子居るのか?」
予想的中。いつだって唐突なのだ。
色恋沙汰の話なら真人と謙吾が寝る前に飽きるまでみっちりしたじゃないか、そう返すつもりだった。
恭介の声音に茶化すような色はなく、かといって急な切実さも欠けていて、これが本当に他愛ない興味から湧いた質問なんだなと理解する。今思えば、結局そういった核心に迫る話題に触れないまま僕ら四人の夜はお開きになっていた。
そして、今は恭介と二人きり。片意地を張ったところで最終的に見透かされてしまう気がする。僕は早々に降参を認めた。
「……居るよ」
「そうか。で、どこまでいってるんだ?」
絶対乗ってくると思っていた。だから、言わなかったんだ。
「どこまでもいってないよ。でも、正直そんなに焦ってないんだ。時間はまだあるから、ゆっくり距離を縮めていければそれでいいかなって」
これも僕の正直な気持ちだ。
恭介の、その正面へ向けた横顔から、ちょっとした仕草から、何かしでかしたくてうずうずしているのが伝わってくる。本当に分かりやすいなあ……。
「駄目だよ、恭介。三年生で就活も忙しいんだから、人の恋路にカマかけてなんかいられないでしょ」
念を押す。だからバックアップしようとか考えないでよ、心中でもう一度、念を押す。
「でも、お前、文化祭までに彼女作って後夜祭のキャンプファイヤーをバックに一緒にフォークダンスを踊りつつ手と手が触れ合って手に汗握りたいもんだろ、普通」
恭介の言う普通はおかしいというか、ひと昔前の少女漫画のワンシーンじゃないだろうか……。
「まあ、理樹も俺たちの助けなしで一人で頑張ってみようってのはいい傾向か」
――そもそも色恋沙汰なんて本来は個人的なものだしな。
廊下の向こうの暗闇に向かって呟いた二つの台詞が二つとも、僕へ向けたというより自分自身への戒めみたいに聞こえた。
幼馴染の僕らは秘密を共有するのは常だけど、初めて皆にも言えない秘密を持ったのはいつだったかなと思う。
こんな話をしていると、僕だけ話しているのは不公平に思えてくる。
「そういう恭介はどうなの?」
その反撃まで予想の範疇なのだろう。ははっと乾いた笑い声だけが返ってくる。軽くあしらわれるのはちょっと癪で、ものの数秒言うべきか迷った末に、兼ねてからの疑問を口にした。
「"今"はどうなの」
『今のところ、理樹が一番だな』
…………僕はどうしてこうも、都合のいいように覚えているのだろう。まさかとは思うけど、僕が持っているのは恣意的に誰かが選んでこっちの現実の世界に持ち込んだ記憶なのだろうか。
恭介が言ったその台詞。時間の確約のない、一時的な断定の台詞。時が“今”から移れば、崩れて無効になる締結に欠けた言質。
そしてまさに僕の目の前の現実は、あの時の言葉から時計の針が外れた先だ。
恭介はふっと笑った。
穏やかで、でも子供のように無邪気な、いつもの笑顔だった。
「そんな早く変わんねえよ。心配するな、理樹」
とん、と恭介の手が優しい力で頭を打つ。くしゃりと髪を巻き込んで、後頭部を撫でる程よい指圧が心地良い。
僕はそんなに心配そうな顔をしていただろうか。
――恭介に彼女、か。
恭介の隣に並ぶ姿を空想してみる。
温かい陽だまりみたいな女の子。完璧で無欠な強い女性。元気で活発な賑やかな女子。優しくて一生懸命な子。静かな水面にそっと寄り添うような少女。
……なぜだろう、どんな人を想像してもしっくりこない。
貧弱な想像力に気が滅入るけれど、一つだけ確信を持てることがあった。きっと恭介が選ぶくらいだから僕の想像が及ばないくらい凄いことをしてみせる人だろう。それを見て僕はきっと思うのだ。これほどまでにお似合いな二人は居ないだろう、と。
我ながら気の早い想像だとは思う。ひとり勝手に考えながらも、ずっと傍にいた恭介が離れていくことに一抹の寂しさを感じてしまう自分が居た。僕も、鈴のことばかり言えないのかもしれない。当分はまだ、鈴の兄で、僕らを見守るいつもの定位置にいて欲しいだなんて虫の良い話だろうか。
すぐ近くにある恭介の横顔をそっと盗み見る。
視線の先はいつだって楽しいことに向けられていて、背中越しに見える虹を追いかけた。朝を待つ僕らの夜、暫時の特等席で見えるのは廊下の先に広がるあてどない闇と月明かり。ここに長くはいられない。ここから見える景色も、僕だけのものじゃなくなってしまう。
それは今はまだ保留の未来のはなし。いつかは楽しみに感じる日がくるといい。門出を祝福して送り出せる、そんな風になれたらいい。僕たちは変わる。これからどれだけだって変わっていけるんだ。それは僕らの視界の先に拓けた希望に思えた。
「恭介」
「ん?何だ?」
「好きな人が出来たら、僕に一番に教えてね」
だからこれは、ささやかな背伸びみたいなものだ。変化を僕自身が受け入れられるように、背中で願いを込めた指先を折る。暗い足元にふらつくことはない。立ち上がって、正面から恭介の顔を見つめた。
恭介は僅かに唖然として、それから。
「嫌だ」
真顔で言った。
すげない断言に転げそうになる。いやいやいや、今のは流石に了承してよ……。
「お前だって教えてくれなかっただろ」
なんだか拗ねているみたいな言い草だった。幼い少年がお気に入りの玩具を隠されて不満そうにそっぽを向いている。そんな様子を思った。
僕よりずっと大人なのに、恭介はこんな風に時々ひどく子供っぽい。しょうがないなあ。僕は宥めるために言葉を探す。
「じゃあ、もし僕が誰かと付き合うことになったら一番に報告する」
期待しなかったからか恭介は何も言わない。僕も返事を求めなかった。僕ら以外に息をするものさえないかのような深夜のロビーに灯りは足りない、その表情を伺い知るには心許なさすぎる。
ややあって、僕らはどちらともなく歩き始めた。さーて、寝るか。そうだね。短いやり取り。
熱を奪われた体に部屋の布団が恋しい。理由ははっきりしないけれど、部屋へ着いたらよく眠れそうだと思えた。
廊下へ差し掛かる間際、恭介が思い出したように口を開いた。
「俺だって別に好きな人くらい居たさ」
「え?そうなの?誰……どんな人?」
三学年での恭介の交友関係は謎が多い。それだけでなく、学年を問わず、いや学内外問わずとにかく顔が広い棗恭介という男に気になる女性が居たとしても不思議ではないけれど、やっぱり初耳だ。
動揺を隠しつつ、おずおずと覗き込むと恭介は得意気な様子で顎に手を当てている。
「あれはそう…………保育園の先生だったな」
想定以上に過去だった!しかもテンプレだ!
「なんだ、驚くようなことか?」
「いや、恭介からそんな月並みな回答が返ってくるとはね」
「つまり理樹は実は俺の初恋は家の近くに住んでた可愛い女の子かと思ったらビックリ!男の娘だったぜ!…みたいな珍エピソードを期待していたのか?」
「真人みたいな言いがかりしないでよ!」
「悪いな……お前の高度なネタ振りに着いていけなかったぜ……。俺は旅に出る……長いこと世話になったな」
「いやいやいや……」
別に高度でも何でもないというかそもそもネタフリですらないとか旅に出るあたりの発想が流石は兄妹しかし何故ボケとツッコミの修行で旅なんだとか、どこに突っ込むのが的確なのか判断できそうになかった。
皆の前に恭介が現れてから怒涛の一日だったのに、もうすっかりいつもの僕らのやり取りだ。
堪え切れずに噴き出して、二人とも自然と笑顔になる。
「恭介、」
瞼の裏には、太陽の下ではしゃぐ真昼の僕らの影。楽しいことだらけの修学旅行。
皆と一緒に居る姿を見ていると、やっぱり恭介はすごいな、と思う。たった一人がそこに居るだけで不揃いな音を奏でる僕らの輪は真円の形に近づいていく。その輪の中心で、不敵に笑っている恭介は今も変わらず僕の憧れだった。こうでなくては、としきりに頷く自分が居る。欠けてしまっては完成しないんだ。
朝の光に目覚めても、僕はきっといとしい日常の帰還を待っている。来ないなら迎えに行くよ。かける言葉はもう決まっていた。
「おかえり」
「おう、ただいま」
.