本編中、葉留佳ルートでの佳奈多と恭介のお話。けっこうギスギスしているかも。
カップリング色はなし。しいていえば、かなはる。
設定部分を色々と捏造しています。
夕暮れを憂う昏い庭の果てで、すらりとした痩身の男が立っていた。
切れ長の目が鋭く尖った視線を投げる。鋭利な冷視とは裏腹に血の気のない仮面のような笑みを口先に貼り付けて、彼は掌を差し伸べた。悪魔か、さもなくば大鎌を構えた死神の貌をして。それは誘う。揺蕩う私を深淵の常夜へ、誘う。
「世界の秘密を知りたくはないか?」
それがわたし、"二木佳奈多"の始まりの記憶だった。
「失礼します、棗先輩」
ノックを三度、それは合図だった。
愛想のない文面で構成されたメールに短く指定された、数少ない要求の一つ。
私はそれを律儀に実行する。抜かりのない相手のことだ、どうせ人払いは済ませてあるのだろう。現に有るはずのルームメイトの影は少しも見えず、男子寮の廊下は不自然に静まっている。こんな行為は形骸でしかない、そう知っていたとしても見て見ぬ素振りを続けるのは滑稽な道化の円舞に等しく思えた。
「頼んでいたものの受け取りに来たのですが」
促されて扉を潜るのと同時に、私は要件を述べる。能う限り端的に、そして事務的に。
助長な余興は嫌いだった。決して彼や、彼の周囲の人間が挙って好むからではなく、合理性からはかけ離れたそれが私には理解し難かったから。無論これは当てつけに値しない。それを知ってか知らずしてか、くるりと回転椅子を廻してそれに応じる彼の態度は不服さを全く感じさせなかった。
「ああ、用意できてるぜ」
棗恭介。その名を遍く轟かす人騒がせな野球チームのリーダー。
彼の名を知らない者は恐らく学内でごく少数に限られる。それ程までに彼は世俗の震央だった。その整った容姿が女子生徒の色目を一端に惹きつけ、大胆で突飛な挙動がまことしやかに囁かれる異聞を牛耳る。常に頭角を現し、常に世間を騒がせ、常に予測を裏切り、颯爽と人目を浚っていく。
台風の眼そのものにして、超速の眩い彗星。彼はそういう存在だった。
その学内屈指の有望な著名人と一風紀委員でしかない私の関係性を知るものは一人としていない。そもそも私自身が正確に把握できていないのだから。
共犯者? ――いいえ、違う。私はただの傍観者。
同伴者? ――いいえ、違う。彼はこの世の超越者。
どんな言葉でも過不足の在るその係属に相応しい名を探すことは酷く無意味な行為に思えた。
そもそも関係性、という相互に結んだ糸があるかも怪しい。ただ一度、朱く昏い瞳に睨まれた。私と彼が共有するものはそれだけだった。
それにしても、と思考を一時中断させて辺りをぐるりと見渡す。机の上を縦横無尽に占領する漫画本の山、山、山。一部は床に積まれて背の低い砦を成し、不揃いに重なったその様は部屋の主の無精な性質を容易に推察させる。整然とした様相とは真逆の、凄惨とした有様。
異性の部屋とはどれもこういうものなのだろうか? 娯楽品を部屋に溜め込んで、それだけなら未だしも整理整頓を疎かにして、年季の入った埃を積もらせて。
自身が配慮に足る存在だなどと自惚れてはいないつもりだが、あんまりだという自覚もないのだろうか。恐らく彼の人間性からして、改める機会を設ける気など毛頭ないようにも考えられる。それこそ仮に総理大臣を招き入れるとしてもだ。
そもそも、だ。今回の呼び出しにしろ彼の部屋である必要性は有るのだろうか。不慣れな空気に落ち着かない気持ちが八つ当たり気味に苛立ちを誘う。
「ほら、探し物はこの中だ」
彼はそう言って抽斗から掌に収まるほどの大きさの包みを取り出した。中身は見えない。
受け取るために部屋へ分け入って距離を詰めていくと、彼の頭上で小包がふっと掲げられる。譲渡を拒むよう手の甲を向けて。
「少し話をしないか、せっかく作った機会だろ。……そんな嫌そうな顔するなよ」
能面の振りは得意だった。だから、不快を顕にしたのは態とだった。
「話があるなら手短にお願いします。余興に付き合っている暇はないので」
「手短に、手短に、な。分かったよ」
溜息を供とした呆れた口調だった。彼の、こういう時の所作は台本を朗読する舞台俳優じみていて、まるで現実味を伴わない。もっともこの世界の凡てが嘘であるというのに、虚実に塗れた言葉にまで切実さを希求するのは愚行だった。
そうと知る筈の私の目の前でふっと、作り物の皮膜が剥がれ落ちる。無表情の貌に深刻な眼差しを決して、彼は続きを告げる。
「単刀直入言わせてもらう。――二木。必要なら俺がお前に命じてもいい」
それは、提案の態をしていた。俄かに信じがたいほど横暴で、坐した様でいながら見下げるように不遜で、声には揺れる憂慮の一つもないのに。
命じるだなんて何様のつもりなのだろう、彼は。嗚呼、でも、そうだ。過失は愚鈍な人間が犯す罪悪なのだとしたら、やはりその言葉は口惜しいほどに正しい。
紙でできたエデンの箱舟。そっと波紋の広がる水面に浮かべたのは誰だったか、それはもう既知の事象だった。うねる蛇体が耳元でその名を囁いたから。
「何を言っているのか判りかねます。今回の件は此方で自主的に提案したことですよ」
声には怒気が滲んでいた。躰を揺蕩する義憤に耐え切れず、閊えた胸が疼く。
「私が独断で行動しても、貴方が誰かを使っても、どうせ結果は同じこと。馬鹿馬鹿しいとは思いませんか。貴方の大事なお友達だって、発端が何であろうと誰であろうと変わりませんよ」
「それはどうかな」
返ったのは拍子の抜けたお道化た応答、だだそれだけ。己に向かう鋭い刀剣の切先を器用な手先でするりと躱すようにして、彼は詭弁を弄する。
「そもそも、今のリトルバスターズは俺のチームじゃない。中心は理樹だ」
今までもこの先も永劫に揺るぎない事実であるように彼は断言した。
彼でさえも、否、むしろ彼だからこそ、その存在を軸に据えている。
私もよく知る、亡者の国の迷い人。――直枝理樹。
目前の彼の期待が何処に由来するものなのか判然としない。其処に根拠などないと示すのなら尚更だ。二人の間に存在する見えない結付きをこの男自身はきっと青臭い言葉を用いて「絆」と呼ぶのだろう。しかし、果たしてそれは正しい定義なのだろうか。仲間内で常に中心に立場に座している彼は、当然のように直枝理樹からも絶対の信頼を寄せられている。信頼、あるいは、もはや信仰と言ってもいい。それは強者への甘えだ。依存だ。
その甘さを抱えているのは直枝理樹だけではない。人は誰かの弱さに縋ることもできるのだから。
「俺の勝手に異議を唱える奴が居ても不思議じゃないさ。来々谷あたりは許してくれそうもないな。もっとも、一発殴られる覚悟くらいはしてるが。……それはあくまで俺の話だ」
自分語りを早々に切り上げて、その矛先を次は私へ。刺々しさを持った詰問よりずっと鋭い響きを持って問いかける。
「二木。規律に厳しい風紀委員長がそんなので大丈夫か?」
言葉だけならまるでその身に降懸かる不運を案じるかのようなのに。不透明な皮肉の色しか感じ取ることはできなかった。
「殴られたかったんですか? しませんよ。理由がそもそもないので」
「理由ならあるだろ」
――三枝葉留佳。
空気を震わす音もないのに、脳へ直接単語が届く。
夕刻の校舎にばら撒かれた暴露の宣告。教室を汚す無数のビラはまるで嵐を呼び込んだようだった。引き裂かれた、私の弱み。重なった二つの人影は互いに寄り添い縋る。悪意に満ちた世界の中心にいながら、それは神聖なチャペルで誓いを契るようで。
どこまで悪趣味なのだろうと虫唾が走った。
「貴方が来々谷さんに、一発どころか二発以上殴られたいならそれは止めませんが。わたしはわたしの目的のための手段しか取りませんから。貴方だって似たようなものでしょう」
引くつもりも、媚びるつもりもない。
当然、詫びて諦めるつもりなどない。
私は、神様なんていないとずっと昔に知っていた。救済は御伽噺の中の冠、夢想家が描いた星屑の法螺。王子様なんていないのよ、夜空に瞬く命の篝火は消えてしまったの、だから救いを請う悲劇の姫君を演じない。
私は魔女。爛れた毒の実りをあなたに差し出す、物語の悪役。
何度も腕に抱きしめた絶望を高らかに布告する。世界を動かす権能を持つ彼へ向けて。
「これから三枝葉留佳の姿で直枝理樹に接触します。手出しは取り返しがつかない事態になるまで、
しないで下さい」
薄く青めいた色のコンタクト。蒼天を思う瞳の彼女に化けるため所望したそれが、彼の手の内の小包に在る。
それは存在しなかった筈のもの。世界を構築する方程式を曲げて顕現させた結晶へ、長らく追い求めた手を伸ばす。拒絶もなくあっさりと譲渡して、彼は肩を竦めた。
「……どこかの馬鹿といい、俺の周りの奴らはどうしてこうも頭が固いんだろうな」
一番意固地なのは誰なのだか。心中の反駁に私は知らない振りをする。
これから犯す行為。その結末に咲く華の色を容易に想像することができる。潰れた果肉を思わせて、鼻腔を弄って口の中にまで満ちる、苦い質量の鈍い臭いも。
そうまでして必死に足掻いた所で、結局自分は彼の掌の上で踊らされている人形に過ぎないのかもしれない。実際、せめてもの抵抗のつもりでこうしてみても、それさえ利用し尽くして完全なシナリオを書くまで彼は妥協を辞さないのだろう。それは恐らく、自分自身さえも糧にして。
憎悪は沸かない。嫌悪の対象でもない。かといって、理解など示さない。
そもそも、私を許した時点で、彼は私の敵ではなかったし、私は彼の味方でもなかった。枠外から冷視を向ける程度が傍観者の関の山といったところだろう。
それでいて、廻る世界に自身の欲望を抱いて一枚噛もうとしているあたり、悪趣味な出歯亀だと認めざる得ない。"願い"だなんて美辞で飾るものか。これは欲だ。存在自体が見当外れで、場違いな、方向性を誤った執着。けれども、二木佳奈多が此処に留まる唯一の意義だった。
――三枝葉留佳の日常を、終わらせない。
その為に二木佳奈多は彼女の敵であり続ける。
そして、三枝葉留佳が役目を終えることは私自身の機能の終刻なのだ。
始まりの記憶は忘れるはずがない、覚えている。
――さいぐさはるかにこの先などない。そうであるなら、わたしは、なんのために。なんのために、あの子に。
それは誰かが残した叫び。行き場の無い慟哭。失意の慨嘆。
空虚な胸を抉る鈍色のナイフの感覚が現実の痛みに摩り替わる。掴む掌に棘を喰い込ませて、罅割れた血肉を苛む。けれど私は手放さない。固く、硬く、堅く。一握の力を込めて、滴る血潮の雫を諸共せず、痛みはとうに喪失した。情念を謳う心など始めからなかったのかもしれない。
壊れた命令を繰返し実行するだけの欠損した歯車。それが私。駆動する機械人形。二木佳奈多を成すための装置。
「やると決めた以上、止めはしない。こうなったら俺から言えることは何もないな。――いや、無い訳じゃないか」
目前の事象をじっと観測する男の視線。
きっと今頃、私の本体は斜め上からの眼球に晒されている。
見透かされるのは嫌いだった。見下されるのも嫌いだった。それでも、宣告して奪った代償に私は打ち据えられる必要がある。
箱庭の果てで何を見たのか、やがて彼は言葉を決して口を開いた。
「二木。幸運を祈るよ、俺は」
一瞬、何を言っているのか判らなかった。内側で鳴り響くエラーを振り払って、たった一つの解を求める。何。それは、何なの。クドリャフカの国の風習。いや、違う。だとすれば。幾重もの可能性を排除して、繰り返した試行の終焉で彼の望む答えを掴み取る。
誰も彼もこの世界で蒼空に夢を見るけれど。凡てを俯瞰した上で残虐な神様みたいに振舞たって、甘い貴方はいつか過つ。人は神にはなれない。 御心のままに、だなんて反吐が出る。
「棗先輩、やっぱりあなたは最低ですね。最低、です」
二度、同じ言葉を唇に乗せる。一つは彼へ。もう一つは既に何度も告げた。
この世界に愛された揺籠の少年は私を「ひとでなし」と称した。倣うつもりはないが、順当な批評ではないだろうか。
碌に返事も待たずに煩雑な部屋を去る。去り際まで礼の一つも口にしなかった。冒涜的な中傷、非道いマナー違反。無音の元素が構成する閑の廊下に出てしまえば咎める人も居らず看過されて、肩を落としてしまう。
制服の上から腕を撫でる。二枚の布越しになぞったというのに、醜悪に歪んだ形が手に取るように分かった。
熟れた傷痕の感触が、停止した筈の濁った感情回路を撹拌する。駄目、駄目、駄目。思い出したくない、だけど忘れてなんかやらない。彼奴等がしたこと、御山の上で哄笑する露悪的な大人たち、無辜の少女達へ課せられた仕打ち。吐き気を催すほどの情動が全身を駆ける。込み上げて溢れるのは憎悪だけ。行き場を失くして、遣る瀬無く迷う虚しい憎悪だけ。
だって、これでもう私も。彼らを嘲ることもできない、最低の、下衆だ。
ふらついた足取りに視界が傾ぐ。光の射さない暗い隧道を一人で行く。どこまでも。どこまでも。
此処には誰も居ないのに。こびり付いてじりじりと背中を焼く、あの冷たい鱗片を今も感じるのは、何故だか判らなかった。
夕暮れを憂う昏い庭の果てで、すらりとした痩身の男が立っていた。
「イレギュラーな行動をとっているのは三枝あたりが動かしているのかと思ったが、そういうことか」
こういうこともあるもんなんだな、彼は独り言ちる。私には理解不能な言葉の羅列。
沈む間際の夕陽が逆光して翳りを帯びた彼の表情は読み取れない。それが却って漂う不気味さに拍車をかけていた。得体の知れない物々しさがぞわりと肌を粟立てる。冷汗が背筋を伝って警告する。彼の言葉に耳を貸してはいけない。
それなのに。棒になった足が機能しない。耳を塞ぐ為の両腕は腐って落ちる。悟性は役目を放棄する。私へ向かって伸びた影が手を伸べて、誘う。
「世界の秘密を知りたくはないか?」
ずるり、頭蓋の裏で這う、気色の悪い感触。智恵の実をもいだ蛇の尾が腕に纏わりつく。
――逃れられない。
惑う意識に翻弄される本能ごと暴虐に支配して、私を捉えて離さない。
忌まわしい、蛇の、朱い瞳。
やがて果実を口にした土偶の女は楽園の秘め事を知る。
それがわたし、"二木佳奈多"の始まりの記憶だった。
Fin.
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